XRのもたらす「感覚の仮想化」
まずXRが人間に及ぼす効果として、XRの活用によって本来は感じるはずのない感覚を得たり、感覚や感情のコントロールが可能になる「感覚の仮想化」が挙げられます。
その実験を進める研究室の一つが、東京大学の研究室「Cyber Interface Lab」が行っている「五感インタフェース」にまつわる研究です。同研究所では、異なる感覚間の相互作用を利用する “クロスモーダル”な人体のメカニズムに着目して、認知科学を応用した実験を行っています。
例えば「メタクッキー」という研究では、ヘッドマウントディスプレイを装着した状態で被験者にバタークッキーを持たせて、視覚と嗅覚にチョコレートクッキーの情報を与えることでいかなる変化が起こるかを検証。8割以上の被験者は、バタークッキーを食べて「チョコレートクッキーの味がした」と回答しました。1)
こうした「感覚の仮想化」を応用すれば、ダイエットや減塩用の食品、病院食などでも幅広い味のバリエーションを感じたり、味を強く感じたりできます。1) また、擬似的に食べ物のサイズを変えて表示することで、満足度を変えずに食べる量を増減させる「拡張満腹感」という研究もあります。1)
1)https://media.dglab.com/2019/01/17-narumi-01/
「人格の仮想化」
XRが人間に及ぼすもう一つの効果として、仮想世界上で「自分が何者であるのか、どのような行動をしたか」が現実でもその後の行動や能力を変容させる「人格の仮想化」が挙げられます。
それを表す一つの概念として、オンラインゲームなど仮想空間上でのアバターの見た目がユーザーの行動特性に影響を与える「プロテウス効果(変身効果)」があります。
2007年、スタンフォード大学のニック・イーとジェレミー・ベイルソンが公開した論文『The Proteus Effect:The Effect of Transformed Self-Representation on Behavior』において、「アバターの見た目が変わると、実際の人間の行動や知覚、態度が変わる」というこの心理効果が提唱されました。*1 例えば同論文では、身長が高いアバターを使っているユーザーは、交渉において強気になることが示されています。
また、実際に人間の知覚や能力にまでプロテウス効果は作用すると言われています。例えば、仮想空間内でアインシュタインのアバターを使うことで認知課題の解決能力が上がるという研究があります。*2 さらに、筋肉量の多いマッチョなアバターを使用した研究では、ユーザーがモノの重さを実際より軽く感じたことが示されています。*3
こうした能力や知覚の変化をユーザーが経験するのは、人間のアバターだけに留まりません。ユーザーがドラゴンのアバターになる研究では、「自分には翼があるから空を飛べる」という感覚が生起することで、人間のアバターと比較して高所への恐怖や、落下に対する不安などが抑制されるという結果が出ています。*4
他者とのコミュニケーションを円滑にするプロテウス効果の活用
プロテウス効果は、より深く他者の感覚を知ったり、より深いコミュニケーションを可能にする活用方法が模索されています。
「相手をより知る」という側面では、例えば白人が仮想空間内で黒人のアバターを利用すると、その後に黒人差別の意識が弱まるという研究があります。*5 アバターによって他者の視点を自分のものとして経験することで、人種やエスニシティ、身体的な見た目等への相互理解を促進させ、より偏見のない人格形成に寄与するかもしれません。
また、こうしたプロテウス効果を具体的に医療へと応用しようとするサービスも現れています。株式会社VR Healthcareが2023年7月に発表した「メタバースこころの相談所」は、VR空間で医師、専門家に相談できるカウンセリングサービスです。
このサービスは、プロテウス効果の一つの側面である「アバターを用いると自己開示しやすくなる」という特徴を活用。子ども達への性犯罪や芸能人関係者の自殺など、医療やカウンセリングにアクセスしにくい層にもより早く手軽にアクセスしてもらうことで、さまざまな事件の予防が期待されています。2)
こうしたアバターが知覚や振る舞い、能力、アイデンティティなどへと与える影響を具体的に活用する方法は、現在進行系で模索されつづけています。XRやメタバースが社会にさらに浸透し、仮想空間での生活の比重が大きくなっていけば、それに影響された私たちの現実の生活や身体感覚、心のあり方も大きく変わっていくのかもしれません。
2)https://medical.jiji.com/prtimes/158897
〈出典〉
*1 Nick Yee, Jeremy Bailenson, The Proteus Effect: The Effect of Transformed Self-Representation on Behavior, Human Communication Research, Volume 33, Issue 3, 1 July 2007, Pages 271–290
https://vhil.stanford.edu/mm/2007/yee-proteus-effect.pdf
*2 Domna Banakou, Sameer Kishore, Mel Slater, Virtually Being Einstein Results in an Improvement in Cognitive Task Performance and a Decrease in Age Bias, Front. Psychol., 11 June 2018 Sec. Cognition Volume 9 - 2018
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2018.00917/full
*3 角田賢太郎, 小川奈美, 鳴海拓志, 廣瀬通考:“筋肉質アバタを用いたプロテウス効果が重さ知覚に与える影響”, 日本バーチャル・リアリティ学会大会論文集, 2A2-2(2020)
https://conference.vrsj.org/ac2020/program/doc/2A2-2_PR0025.pdf
*4 小柳 陽光, 鳴海 拓志, Jean-Luc. Lugrin, 安藤 英由樹, 大村 廉:“ドラゴンアバタを用いたプロテウス効果の生起による高所に対する恐怖の抑制”, 日本バーチャルリアリティ学会論文誌, 2020 年 25 巻 1 号 p. 2-11
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tvrsj/25/1/25_2/_article/-char/ja/
*5 Domna Banakou, Parasuram D. Hanumanthu, Mel Slater, Virtual Embodiment of White People in a Black Virtual Body Leads to a Sustained Reduction in Their Implicit Racial Bias,Front. Hum. Neurosci., 29 November 2016, Sec. Sensory Neuroscience, Volume 10 - 2016
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fnhum.2016.00601/full